2007年
11月27日(火曜日)
第一章 出国まで 1 行動開始
1974
ここはある私の故郷にある大学病院のがん病棟。
祖母が舌癌で入院し、10か月くらいコバルト照射などの過酷な治療
に堪えてきた。
完全看護の病院だけれど、祖母は耳が遠いから通訳(?)を兼ねた
付き添いが許されるということだったので、
私は大学の授業を放り出し、叔母さんと交代で祖母の看病をするた
めに故郷に帰っていたんだ。
治療の山場は終わり、今は経過を見ている状態。
白い壁と廊下の病院内に色を添えるものといえば、患者さんたちの
スリッパとタオルの柄くらい…
とはいっても窓の外で繰り広げられる自然の芸術・季節ごとの風景は
みんなの心を癒してくれているけれどね。
昨日、廊下にたくさんの人が集まっていた。
隣の一人部屋のおじいちゃん、亡くなったんだ。
病気が重くなるとだんだんベット数の少ない、そしてナースステーショ
ンに近い部屋に移動して行くんだよ。
祖母も三人部屋に移った。
他の二人の患者さんのうちの一人は30代前半のおねえさんだけど、
ふつうに暮らしていたのに、ある日突然、唾液が出なくなったそう。
もうひとりは顎(あご)を切り取る手術をして、顔半分包帯ぐるぐる巻き
のおばあちゃん。
この病気になる前は、NHKの喉自慢で特別賞をもらったことが自慢の
陽気なおばあちゃんだったって。
そうして10か月近く病院で付き添いをして、私は思ったんだ。
「人生は一度きり。 明日何が起きる
かわからない。
やりたいことをやらなくちゃ」
って。
じゃあ、私は何がしたいの?
夢は何?
そりゃ、やりたいことはたくさんあるし、
夢だっていくらでも大きく膨らむ。
なりたいものだってある。
みんなそうでしょう?
だからって、夢と現実は違うって納得し始めていた。
でも可能性は少しは残っているよ。
それは、それらの目標のためにやるべきことを実行できるかどうかに
かかっている。
叶うかどうか自分の力ではどうにもならないことはたくさんあるけれど、
そのために今できることはある。
それをやるかやらないかで、夢実現可能性のパーセンテージは
かなり変わってくると思う。
「今、やるかやらないか」だ。
「明日にしよう」
「いつかしよう」
では、事故に遭ったり病気になったりして手遅れになるかもしれない。
「できる時」 がチャンスだ。
病院での付き添いをしていて、そう思うようになった。
私はやるゾー!
夢を実現させるために必要なことを、
今、始めるんだ。
夢? それはね、
いろいろな国に行ってみること。
世界地図を見てごらんよ。
こんなに小さい日本の、目に見えないくらい小さな町の中で、兄、私、
弟は、離婚した両親の実家や、実母と父の愛人の間に挟まれて、
どこへ行っても居心地の悪い思いをして来たんだ…。
(ゴメンね、メチャ個人的なことで。
でもそれが故郷を、日本を離れたい大きな動機だったから)
だから私は、私のことを誰も知らない土地へ行って、
「私」 のままで、一 (いち) から始めてみたいんだ。
私の育った背景も知らず、家柄や学歴のレッテルもない…
そういった、先入観が何もない世界でさ。
それに私たちは ”日本人” である前に ”地球人” !
”自分の生まれたこの広〜い世界を、美しい地球を、生きて感動でき
る自分がいる間にこの目で見て歩きたい”
そんな気持ちになっていた。
(かなりある人の影響だけど。次の記事に出てくる)
そんなわけで、
私は祖母が生きているうちに行動を開始することにした。
死んでからじゃ、死ぬのを待っていたみたいだから。
それじゃ、祖母に悪いよ。
「美弥ちゃんにはもう十分やってもらった。
私のことなんかもう構わずに好きなことをやっておくれ、まだ若いんだから」
祖母もそう言ってくれてるし。
生き生きと夢を実現している私を見守ってもらうよ、病床から。
来週は、日本脱出の資金稼ぎの仕事探しを始めるゾ。

パチリ。大学1年生。
ここはある私の故郷にある大学病院のがん病棟。
祖母が舌癌で入院し、10か月くらいコバルト照射などの過酷な治療
に堪えてきた。
完全看護の病院だけれど、祖母は耳が遠いから通訳(?)を兼ねた
付き添いが許されるということだったので、
私は大学の授業を放り出し、叔母さんと交代で祖母の看病をするた
めに故郷に帰っていたんだ。
治療の山場は終わり、今は経過を見ている状態。
白い壁と廊下の病院内に色を添えるものといえば、患者さんたちの
スリッパとタオルの柄くらい…
とはいっても窓の外で繰り広げられる自然の芸術・季節ごとの風景は
みんなの心を癒してくれているけれどね。
昨日、廊下にたくさんの人が集まっていた。
隣の一人部屋のおじいちゃん、亡くなったんだ。
病気が重くなるとだんだんベット数の少ない、そしてナースステーショ
ンに近い部屋に移動して行くんだよ。
祖母も三人部屋に移った。
他の二人の患者さんのうちの一人は30代前半のおねえさんだけど、
ふつうに暮らしていたのに、ある日突然、唾液が出なくなったそう。
もうひとりは顎(あご)を切り取る手術をして、顔半分包帯ぐるぐる巻き
のおばあちゃん。
この病気になる前は、NHKの喉自慢で特別賞をもらったことが自慢の
陽気なおばあちゃんだったって。
そうして10か月近く病院で付き添いをして、私は思ったんだ。
「人生は一度きり。 明日何が起きる
かわからない。
やりたいことをやらなくちゃ」
って。
じゃあ、私は何がしたいの?
夢は何?
そりゃ、やりたいことはたくさんあるし、
夢だっていくらでも大きく膨らむ。
なりたいものだってある。
みんなそうでしょう?
だからって、夢と現実は違うって納得し始めていた。
でも可能性は少しは残っているよ。
それは、それらの目標のためにやるべきことを実行できるかどうかに
かかっている。
叶うかどうか自分の力ではどうにもならないことはたくさんあるけれど、
そのために今できることはある。
それをやるかやらないかで、夢実現可能性のパーセンテージは
かなり変わってくると思う。
「今、やるかやらないか」だ。
「明日にしよう」
「いつかしよう」
では、事故に遭ったり病気になったりして手遅れになるかもしれない。
「できる時」 がチャンスだ。
病院での付き添いをしていて、そう思うようになった。
私はやるゾー!
夢を実現させるために必要なことを、
今、始めるんだ。
夢? それはね、
いろいろな国に行ってみること。
世界地図を見てごらんよ。
こんなに小さい日本の、目に見えないくらい小さな町の中で、兄、私、
弟は、離婚した両親の実家や、実母と父の愛人の間に挟まれて、
どこへ行っても居心地の悪い思いをして来たんだ…。
(ゴメンね、メチャ個人的なことで。
でもそれが故郷を、日本を離れたい大きな動機だったから)
だから私は、私のことを誰も知らない土地へ行って、
「私」 のままで、一 (いち) から始めてみたいんだ。
私の育った背景も知らず、家柄や学歴のレッテルもない…
そういった、先入観が何もない世界でさ。
それに私たちは ”日本人” である前に ”地球人” !
”自分の生まれたこの広〜い世界を、美しい地球を、生きて感動でき
る自分がいる間にこの目で見て歩きたい”
そんな気持ちになっていた。
(かなりある人の影響だけど。次の記事に出てくる)
そんなわけで、
私は祖母が生きているうちに行動を開始することにした。
死んでからじゃ、死ぬのを待っていたみたいだから。
それじゃ、祖母に悪いよ。
「美弥ちゃんにはもう十分やってもらった。
私のことなんかもう構わずに好きなことをやっておくれ、まだ若いんだから」
祖母もそう言ってくれてるし。
生き生きと夢を実現している私を見守ってもらうよ、病床から。
来週は、日本脱出の資金稼ぎの仕事探しを始めるゾ。

パチリ。大学1年生。
2007年
12月04日(火曜日)
1−2 先発の亮介兄さん
あれから仕事を探してみた。
ところで履歴書には “大学中退”って書いてもいいのかなー。
中退って、高卒と同じなのかなー…?
短い間にお金を貯めるために、昼間は正社員で働き、夜は飲食店系
でバイトをすることにしたよ。
今、新聞の求人欄や、求人誌を見ている。
その私は19才の大学二年生。
ひとつ年上の、母親違いの兄がいる。
その亮介さんは小学校5年生の時に、
親戚の子として家に引き取られて来たんだけど、
中学から私立の男子校の寮に入るためにいなくなってしまった。
私も高校から厳しい私立女子高の寮に入ったので、
夏休みとかの長い休みに、弟が預けられている祖父母の家で、
やはり寮から数日帰省して来た兄さんと合流するのがとっても楽しみ
だった。
蚊帳の中に、いっしょに捕ってきたホタルを放して、私と小さな弟に
いろんなおもしろい話をしてくれたっけ。
怪談とかもね。
兄さんとも弟とも、もっともっといっしょにいたかったけど、
気がつくといつも兄さんはいなくなっていたんだ。
その亮介兄さんは、すでに日本を脱出している。
本当は芸大を受験したかったんだけど、実力からも経済的にも難しか
ったから、お金を貯めて外国へ行くことに。
そして18才で季節労働者に混じって工場で油だらけになって働いた。
時給がいいからって。
「まだきれいなもの素晴らしいものに素直に感動できるうちに、自分
の生まれた美しい地球をこの目で見て歩きたい。
社会に出て計算や諦めで、歪んだ見方しかできなくなる大人になる
前に」
そんなこと言ってた。
私、かなり影響されちゃってる? (;・∀・)
そうして兄さんは一年間働いてお金を貯めて、去年19才で世界放浪
の旅に出た。
それも、“♪横浜の波止場から船に乗って”だよ。
すっごい勇気があると思った。
忘れられないなあ、見送りに行った時のこと…。
埠頭に横付けされた大きな白い客船はね、そこに停泊している間は、
まるでひとつの大きな建物みたいだったんだよ。
それがね、ボォ〜って汽笛が鳴り響いたと思ったらぐらりと揺れて、
そして岸から離れて行ったの。
1m… 2m… 5m… 10m… 30m……
大好きなビートルズのBGMを肩から下げたテープレコーダーから流し
て、記念すべき旅立ちを自分で演出しちゃったりしてさ!
だけど、その音がだんだん遠ざかって小さくなり、
亮介にいの顔が米粒のようになった。
でもその表情は想像できたんだ。
手を大きく振りながら、「おまえも早く来いよ〜っ」
って言っていた。
えー? そんなこと言ったってさぁ。
あんたはいいよね、男だもん。
私は女の子だよ。 それもふだんは超ふつうの…。
ふつうって?
うん、それはね、成績優秀でもないし、特に何か得意だったり
打ち込んでいたりするものもないし、
性格もみんなの人気者とかそんなこともないし。
それどころか小さい時から厳しい祖父母の監督下で育てられ、
その後も時代遅れと言われる程の厳しい女子寮で過ごしていたせ
いもあるのか、すっごく堅い。
常識とか人の目とか気にして思い切ったことなんてできないし、
嫌われるのがこわくて、いつもまわりの人たちの顔色を見て合わせ
ているだけの退屈な女の子だったんだ。
自分から目立つことをしたりみんなを笑わせるとかなんてこと、全然
できなかったし。
だからね、性にもなく芸術学部演劇学科なんか受験したんだよ。
清水の舞台から飛び降りるつもりで。
だって全く違った人生を生きてみたかったんだもの。
幸い補欠で合格したけどそれは
受験科目に理数系がなかったせいもある。
あったら完璧に落ちていた。
そしてその日も、船自体が米粒のようになって。
亮介兄さんは紺碧の地平線の彼方に消えて行ってしまったんだ。
☆ 私がいっぱい影響を受けてしまった亮介兄さん 紹介コーナー☆

身長176センチ。水瓶座。
年はひとつ違いだけど、遅生まれなので
学年はふたつ上なんだ。
これは実際にフィンランドから送って来た写真。

中学時代

高校時代 冬バージョン
*写真が出ない時は、少し待ってみて。
他のページに行って帰ってくると、その間に出ていたりもします。
ところで履歴書には “大学中退”って書いてもいいのかなー。
中退って、高卒と同じなのかなー…?
短い間にお金を貯めるために、昼間は正社員で働き、夜は飲食店系
でバイトをすることにしたよ。
今、新聞の求人欄や、求人誌を見ている。
その私は19才の大学二年生。
ひとつ年上の、母親違いの兄がいる。
その亮介さんは小学校5年生の時に、
親戚の子として家に引き取られて来たんだけど、
中学から私立の男子校の寮に入るためにいなくなってしまった。
私も高校から厳しい私立女子高の寮に入ったので、
夏休みとかの長い休みに、弟が預けられている祖父母の家で、
やはり寮から数日帰省して来た兄さんと合流するのがとっても楽しみ
だった。
蚊帳の中に、いっしょに捕ってきたホタルを放して、私と小さな弟に
いろんなおもしろい話をしてくれたっけ。
怪談とかもね。
兄さんとも弟とも、もっともっといっしょにいたかったけど、
気がつくといつも兄さんはいなくなっていたんだ。
その亮介兄さんは、すでに日本を脱出している。
本当は芸大を受験したかったんだけど、実力からも経済的にも難しか
ったから、お金を貯めて外国へ行くことに。
そして18才で季節労働者に混じって工場で油だらけになって働いた。
時給がいいからって。
「まだきれいなもの素晴らしいものに素直に感動できるうちに、自分
の生まれた美しい地球をこの目で見て歩きたい。
社会に出て計算や諦めで、歪んだ見方しかできなくなる大人になる
前に」
そんなこと言ってた。
私、かなり影響されちゃってる? (;・∀・)
そうして兄さんは一年間働いてお金を貯めて、去年19才で世界放浪
の旅に出た。
それも、“♪横浜の波止場から船に乗って”だよ。
すっごい勇気があると思った。
忘れられないなあ、見送りに行った時のこと…。
埠頭に横付けされた大きな白い客船はね、そこに停泊している間は、
まるでひとつの大きな建物みたいだったんだよ。
それがね、ボォ〜って汽笛が鳴り響いたと思ったらぐらりと揺れて、
そして岸から離れて行ったの。
1m… 2m… 5m… 10m… 30m……
大好きなビートルズのBGMを肩から下げたテープレコーダーから流し
て、記念すべき旅立ちを自分で演出しちゃったりしてさ!
だけど、その音がだんだん遠ざかって小さくなり、
亮介にいの顔が米粒のようになった。
でもその表情は想像できたんだ。
手を大きく振りながら、「おまえも早く来いよ〜っ」
って言っていた。
えー? そんなこと言ったってさぁ。
あんたはいいよね、男だもん。
私は女の子だよ。 それもふだんは超ふつうの…。
ふつうって?
うん、それはね、成績優秀でもないし、特に何か得意だったり
打ち込んでいたりするものもないし、
性格もみんなの人気者とかそんなこともないし。
それどころか小さい時から厳しい祖父母の監督下で育てられ、
その後も時代遅れと言われる程の厳しい女子寮で過ごしていたせ
いもあるのか、すっごく堅い。
常識とか人の目とか気にして思い切ったことなんてできないし、
嫌われるのがこわくて、いつもまわりの人たちの顔色を見て合わせ
ているだけの退屈な女の子だったんだ。
自分から目立つことをしたりみんなを笑わせるとかなんてこと、全然
できなかったし。
だからね、性にもなく芸術学部演劇学科なんか受験したんだよ。
清水の舞台から飛び降りるつもりで。
だって全く違った人生を生きてみたかったんだもの。
幸い補欠で合格したけどそれは
受験科目に理数系がなかったせいもある。
あったら完璧に落ちていた。
そしてその日も、船自体が米粒のようになって。
亮介兄さんは紺碧の地平線の彼方に消えて行ってしまったんだ。

身長176センチ。水瓶座。
年はひとつ違いだけど、遅生まれなので
学年はふたつ上なんだ。
これは実際にフィンランドから送って来た写真。

中学時代

高校時代 冬バージョン
*写真が出ない時は、少し待ってみて。
他のページに行って帰ってくると、その間に出ていたりもします。
2007年
12月11日(火曜日)
3.羽ばたきの土台
ところで、外国に行こうとしたことに関係あるので、
ちょっとだけ家のことを書いておくね。
この記事の最初の部分だけだからつきあって。
祖父母の家は田舎にあるんだけれど、私は大学入学と同時に、
父と元愛人の住む都心のマンションにしばらく同居することになった。
元愛人は父より16才年下で、私とひとまわりしか違わなかった。
私が17才の時に東京へ父に会いに行った時なんて、その人まだ20
代だったんだ。(◎皿◎)
そこはカップルで暮らすのにぴったりの、都心を見晴らす高層の5階
にある1DKだったけど、
余分な部屋はないから、突然上京した娘の私は居場所がなくて、
”もっとひろいところを借りるまでは” ってことで、
私は廊下と区別がつかないようなキッチンにふとんを敷いて寝てい
たんだよ。
いくら天然の私でもちょっときついよね、こんな環境…。
(はい。身の上話はここまで。(´・∀・`))
それで大学で知り合った貧乏学生の女友だちのアパートに転がり
込んで、アルバイトをしながら一緒に暮らし始めたんだ。
彼女もアパート代が半分になって助かった。
アングラ演劇に凝ってる子で、
訪ねてくる友だちも面白かったなあ。
その後父は東京の郊外に家を建て、元愛人も正式に籍を入れて
そこで暮らし始めたけれど、私はそこへ戻ることはなかった。
でもここへきて外国へ行く資金を貯めるため、両親の新しい家に
入り、そこを足台に昼も夜も働くことにしたさ。
昼間の仕事見つけたよ!
都心に近い会社の事務員に応募したら、採用になった。
夜は夜で自宅のある駅の近くの割烹でのお皿洗いを始めた。
帰ってから、継母に録音しておいてもらったNHKのラジオ講座の
基礎英語もかかさず聞いている。
私、すごくがんばっている。
最初、両親は、
”フーテンの兄に影響されたバカな妹だ” と反対してたけど、
「まあ、いいさ。 続くはずないよ。 そのうちあきらめるだろう」
って感じになってきた。
私が朝6時半からの強行スケジュールを終え、割烹の板前さんに
送ってもらって帰宅するのは夜の11時過ぎ。
玄関を開ける音を聞いて、父が心配そうにふすまの隙間から
様子を伺っていたりする。
目も開いていられないほど疲れ果て、着替えもせずに
そのまま床に倒れて眠ってしまう夜もあるけど、
次の朝はまたパッと目覚めて元気いっぱい戦闘開始!
私、今一番輝いているかも。
だって夢は目の前。
働いて必要なお金を作りさえすれば、世界への道が
開かれるんだもの!
早起きも満員電車もお皿洗いも全然辛くないよ。
祖母は主な手術や治療を終えたので近くの病院に転院し、
祖父と叔母さんたちが世話をしている。
今まで家のことを何もしなかった祖父が台所に立ち、
祖母が退院する日のために、
柔らかい魚の煮物などに挑戦しているらしい。
年取ってからのこんな夫婦愛もいいかも。
おじいさん、おばあちゃん、ごめんね。
もっとそばにいてあげられなくて。

とってつけ事務員ナリ。 とってつけ同僚の皆さんと。
ちょっとだけ家のことを書いておくね。
この記事の最初の部分だけだからつきあって。
祖父母の家は田舎にあるんだけれど、私は大学入学と同時に、
父と元愛人の住む都心のマンションにしばらく同居することになった。
元愛人は父より16才年下で、私とひとまわりしか違わなかった。
私が17才の時に東京へ父に会いに行った時なんて、その人まだ20
代だったんだ。(◎皿◎)
そこはカップルで暮らすのにぴったりの、都心を見晴らす高層の5階
にある1DKだったけど、
余分な部屋はないから、突然上京した娘の私は居場所がなくて、
”もっとひろいところを借りるまでは” ってことで、
私は廊下と区別がつかないようなキッチンにふとんを敷いて寝てい
たんだよ。
いくら天然の私でもちょっときついよね、こんな環境…。
(はい。身の上話はここまで。(´・∀・`))
それで大学で知り合った貧乏学生の女友だちのアパートに転がり
込んで、アルバイトをしながら一緒に暮らし始めたんだ。
彼女もアパート代が半分になって助かった。
アングラ演劇に凝ってる子で、
訪ねてくる友だちも面白かったなあ。
その後父は東京の郊外に家を建て、元愛人も正式に籍を入れて
そこで暮らし始めたけれど、私はそこへ戻ることはなかった。
でもここへきて外国へ行く資金を貯めるため、両親の新しい家に
入り、そこを足台に昼も夜も働くことにしたさ。
昼間の仕事見つけたよ!
都心に近い会社の事務員に応募したら、採用になった。
夜は夜で自宅のある駅の近くの割烹でのお皿洗いを始めた。
帰ってから、継母に録音しておいてもらったNHKのラジオ講座の
基礎英語もかかさず聞いている。
私、すごくがんばっている。
最初、両親は、
”フーテンの兄に影響されたバカな妹だ” と反対してたけど、
「まあ、いいさ。 続くはずないよ。 そのうちあきらめるだろう」
って感じになってきた。
私が朝6時半からの強行スケジュールを終え、割烹の板前さんに
送ってもらって帰宅するのは夜の11時過ぎ。
玄関を開ける音を聞いて、父が心配そうにふすまの隙間から
様子を伺っていたりする。
目も開いていられないほど疲れ果て、着替えもせずに
そのまま床に倒れて眠ってしまう夜もあるけど、
次の朝はまたパッと目覚めて元気いっぱい戦闘開始!
私、今一番輝いているかも。
だって夢は目の前。
働いて必要なお金を作りさえすれば、世界への道が
開かれるんだもの!
早起きも満員電車もお皿洗いも全然辛くないよ。
祖母は主な手術や治療を終えたので近くの病院に転院し、
祖父と叔母さんたちが世話をしている。
今まで家のことを何もしなかった祖父が台所に立ち、
祖母が退院する日のために、
柔らかい魚の煮物などに挑戦しているらしい。
年取ってからのこんな夫婦愛もいいかも。
おじいさん、おばあちゃん、ごめんね。
もっとそばにいてあげられなくて。

とってつけ事務員ナリ。 とってつけ同僚の皆さんと。

